三節度使を兼任した安禄山の総兵力は約十八万、一方首都長安を防衛する左右羽林軍は六万足らずと安禄山の兵力は圧倒的なものとなっていた。安禄山は楊国忠と玄宗の寵愛を争うが、この争いは常に玄宗の傍に居る楊国忠が有利であり、安禄山は自らの地位を失う恐怖から755年、ついに乱を起こした。(安史の乱)
玄宗は蜀に逃亡、皇太子の亨が朔方節度使を頼り、粛宗となる。その後、反乱軍側の内部分裂と顔真卿・顔杲卿たちに代表される勤皇軍の奮戦・ウイグルの援兵などがあり、唐は763年に何とか乱を収める。しかし唐が乱の勢力を根絶したわけではなく、安史軍の根拠地であった河北には安史軍から投降してきた魏博(天雄軍)の田承嗣・幽州(廬龍軍)の李懐仙・恒冀(成徳軍)の李宝臣などの武将をそのまま節度使として任命していた。
更に乱の途中からそれまで置いていなかった内地にも次々に藩鎮が設置され、藩鎮の総数は50を超え、首都長安・副都洛陽の周辺部を除いた全ての地域が藩鎮の支配下に置かれるようになるのである。軍権と民政権とを兼ね備えた藩鎮の勢力は強大であり、藩鎮は多く自立傾向を持った。特に旧安史軍の三将はその傾向が強く、これを河朔三鎮と呼んでいる。
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これら藩鎮は軍職たる節度使(ないし団練使・防禦使・経略使)と行政職たる観察使とを兼任し、事実上中央の命に拠らず藩を領有した。その長たる藩師が死去した場合、その子や配下の有力者がこれを継承し、実力をもって朝廷にこれを認めさせることがほとんどであった。
唐が滅亡した後も唐の正朔を奉じ続けた淮南節度使に見られるように、唐全体の経済を支える江南地域は比較的朝廷に対して恭順であり、逆に河北は旧安史軍の根拠地であり、唐に対して反抗的で納めるべき税を全く収めず自らの収入として使っていた。これら唐に対して反抗的な藩鎮を反側藩鎮と呼ぶ。
代宗・徳宗期
乱をようやく収めた代宗朝ではあったが、国力を大幅に消耗しており、藩鎮に対して強い態度を取れる状態ではなかった。
代宗を継いだ徳宗は藩鎮抑圧を目標とし、781年に成徳の李宝臣が死去し、その子の李惟岳が世襲を求めてきたがこれを拒否。これに反発した成徳・天雄・平盧・山南東道(陝西東部)の梁祟義が連合して乱を起こす。代宗は禁軍(近衛軍)と廬龍を初めとした他藩鎮軍とを動員して討伐を加え、梁祟義を滅ぼし、李惟岳を捕らえた。
代宗の藩鎮討伐は成功するかに思えたが、大量の兵員動員による軍事費は財政を圧迫し、それを補うために行った増税は民衆の強い反発を買った。また代宗の強硬姿勢を見た他藩鎮は自らの地位を失うことを恐れ、初めは官軍に与していた廬龍軍などが乱側に寝返ってしまった。更に討伐に力を入れる余り、長安周辺の防備は甚だ薄くなった。
この虚を突いて783年に乱が起こり、元幽州節度使の朱沘を擁立して長安を占拠した。狼狽した代宗は奉天(長安の西。瀋陽のことではない)に逃れる。
代宗は事態を収拾するために乱側の藩鎮の地位を保全して罪を赦し、疲弊した藩鎮側もこれを受け入れる。これを受け入れない廬龍・淮西そして長安を占拠した朱沘らも786年までに何とか滅ぼすことに成功する。
しかし淮西の李希烈を殺した功績で淮西節度使となっていた陳仙奇を倒した呉少誠が再び799年に乱を起こし、一年余りの戦いの末に罪一切不問とすることでこれを収めた。長い戦いにより多くの兵士と金銭が失われたが、結局藩鎮抑制の目標を達成したとは言いがたい。